幕末志士伝
今の日本の土台を創った志士たち


土佐藩(出身藩士)
坂本龍馬
今の政治家の皆さんも坂本龍馬のように私欲を捨て日本国民のことを第一と考えて政治を行って貰いたい
土佐藩士(脱藩)坂本龍馬(さかもとりょうま)
(1830年〜1863年)
1835年 坂本長兵衛の次男として土佐藩内で生まれる。
1853年 江戸の千葉定吉の道場へ剣術修行に向かう。
1854年 江戸より帰国する。
1856年 再び江戸へ修行に向かう。
1858年 北辰一刀流長刀兵法を授かり江戸より帰国。
1861年 土佐勤王党に入党する。
1862年 武市半平太の使いで、萩の久坂玄瑞に会う。土佐藩を脱藩する。勝海舟に会い、門下生になる。
1863年 勝の尽力で脱藩罪が許される。神戸海軍塾の塾頭になる。
1864年 神戸海軍操練所が完成し、塾生がが集まる。池田屋騒動、禁門の変がおこる。
1865年 薩摩藩の援助で亀山社中を設立。
1866年 坂本龍馬の仲介で薩長同盟する。 寺田屋で襲撃されるが薩摩藩に逃げ込み助かる。 日本初の新婚旅行する。幕府の第2次長州征伐に長州側で戦う。
1867年 亀山社中を海援隊と改名。いろは丸沈没事件で紀州藩から賠償金を求める。船中八策を考案する。土佐に帰国。 京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺される。
自然堂 坂本龍馬記念館 坂本龍馬と海援隊 神田龍馬会 竜馬が駆けた町 脱!竜馬がゆく 竜馬の如く 幕末龍馬堂  神戸龍馬操練所

土佐藩士中岡慎太郎(なかおかしんたろう)
(1838年〜1867年)
1838年 安岐郡北川郷柏木村にうまれる。
1861年 武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。
1863年 脱藩し、同年9月、長州藩三田尻に亡命する。
1864年 下関戦争を長州側で戦い、負傷する、
1866年 京都二本松薩摩藩邸において薩長の和解および薩長同盟を結実させる。
1867年 同志坂本龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免される
1867年 京都近江屋で坂本龍馬と、何者かに襲撃され、その2日後に死去した。

土佐藩主山内容堂(やまのうちようどう)
(1827年1872年)
1827年 高知城下で生まれる。
1849年 藩主に就任。
1867年 維新政府議定に就任。
1868年 内国事務総裁兼任。
1868年 昇叙転任し、政府議政官の上局たる議定に就任。
1869年 上局議長に就任。学校知事就任。
1869年 学校知事依願退職し、麝香間祇候となる。
1872年 脳溢血により死去した。

土佐藩士吉田東洋(よしだとうよう)
(1816年〜1862年)
1816年 城下の帯屋町に生まれる。
1823年 嗣子となる。
1837年 口論から家僕を殺害し、篭居する。
1841年 父の正清が死去し、家督を相続。
1853年 ペリーの来航に対する対外意見書が認められ参政に抜擢される。
1862年 土佐勤王党の刺客により暗殺される。

土佐藩士後藤象二郎(ごとうしょうじろう)
(1838年〜1897年)
1838年

高知城下にて上士・馬廻格150石の後藤助右衛門の長男として生まれる

1858年 幡多郡奉行になる。
1861年 普請奉行になる。
1863年 江戸の開成所にて蘭学や航海術を学ぶ。
1864年 土佐勤王党を実質解散に追い込み、武市らを切腹させた。
1867年 坂本龍馬との会談を行う。
1867年 龍馬が最初に提案した船中八策に基づき、大政奉還させるよう進言する。
1881年 板垣退助を中心に、自由党を設立した。
1897年 死去する。

土佐藩士武市瑞山(たけちずいざん)
1829年 土佐国吹井村に生まれる。
1849年 城下の新町で剣術道場を開く。
1856年 江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となる。
1862年 吉田東洋を暗殺するよう土佐勤王党員に指令を出す。
1863年 白札から上士格留守居組に出世。
1865年 「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹する。

土佐藩士板垣退助(いたがきたいすけ)
(1837年〜1919年)  「板垣死すとも自由は死せず
1837年 高知城下中島町に土佐藩士・乾栄六正成の長男として生まれた。
1869年 明治新政府の参与となる。
1881年 自由党を結成して総理大臣となる。
1882年 岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷した。
1896年 第2次伊藤内閣・第2次松方内閣に内務大臣として入閣。
1898年 対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織する。
1900年 立憲政友会の創立とともに政界を引退。
1919年 死去する。