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今の日本の土台を創った志士たち
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徳川幕府(将軍と幕閣・幕臣) |
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十四代将軍徳川家茂(とくがわいえもち) |
1846年〜1866年 |
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1846年 |
紀州藩主・徳川斉順(なりゆき)の長男として江戸上屋敷で誕生する。 |
1847年 |
叔父徳川斉疆(なりかつ)の養子になる。 |
1849年 |
紀州藩・藩主になる。 |
1858年 |
十四代将軍となる。 |
1862年 |
孝明天皇の妹和宮と婚儀をあげる。 |
1865年 |
第2次長州戦争のため大阪にむかう。 |
1866年 |
大阪城中にて死去。 |
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十四代将軍 徳川家茂 |
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十五代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ) |
1837年〜1913年 |
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1837年 |
水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の7男として江戸上屋敷で誕生する。 |
1847年 |
十二代将軍家慶(いえよし)の命により一橋家を相続する。 |
1855年 |
一条忠香の養女・延(美賀子)と結婚する。 |
1863年 |
朝廷より参与を命じられる。 |
1864年 |
禁裏御守衛総督に任じられる。禁門の変で幕府軍を指揮する。 |
1866年 |
十五代将軍になる。 |
1857年 |
大政奉還、将軍職を辞する。 |
1868年 |
水戸にて謹慎ののち駿府に移り住む。 |
1880年 |
正二位に叙せられ旧位に復す。 |
1882年 |
従一位に叙せられる。 |
1898年 |
皇居に参内し明治天皇に謁見する。 |
1913年 |
11月、死去する。 |
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十五代将軍 徳川慶喜 |
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幕府大老(彦根藩主)井伊直弼(いいなおすけ) |
1818年〜1860年 |
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1818年 |
彦根藩主・井伊直中の十四男として誕生。 |
1846年 |
直亮の養子になる。 |
1850年 |
直亮が死去する。井伊直弼が彦根十三代藩主になる。 |
1853年 |
ペルーが浦賀沖に来航。 |
1854年 |
日米和親条約が調印される。 |
1855年 |
左近衛権中将に昇進。 |
1858年 |
井伊直弼大老になる。安政の大獄がはじまる。 |
1860年 |
桜田門外で水戸浪士らに暗殺される。 |
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幕府老中(福山藩主)阿部正弘(あべまさひろ) |
1819年〜1857年 |
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1819年 |
福山藩主阿部正精の六男として誕生。 |
1836年 |
福山藩主になる。 |
1840年 |
寺社奉行になる。 |
1843年 |
老中になる。 |
1845年 |
老中首座になる。 |
1853年 |
ペルーが浦賀沖に来航。 |
1854年 |
日米和親条約が調印される。 |
1855年 |
長崎に海軍伝習所を開設する。 |
1857年 |
幕政の改革に尽力するが、病死する。 |
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幕府老中(佐倉藩主)堀田正睦(ほったまさよし) |
(1810年〜1864年) |
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1810年 |
第3代藩主・堀田正時の次男として生まれる。 |
1833年 |
藩主として藩政改革を指揮する。 |
1837年 |
老中となる。 |
1864年 |
死去する。 |
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幕府老中(磐城平藩主)安藤信正(あんどうのぶまさ) |
(1819年〜1871年) |
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1819年 |
磐城平藩江戸藩邸で生まれる。 |
1847年 |
父の死により家督を継ぐ。 |
1860年 |
老中となる。 |
1862年 |
和宮降嫁問題に反発する尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け、負傷。 |
1868年 |
若年の藩主・安藤信勇に代わって本領での藩政を指揮。 |
1868年 |
奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦ったが敗れ、磐城平城は落城した。 |
1871年 |
死去する。 |
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幕臣勝海舟(かつかいしゅう) |
(1823年〜1899年) |
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1823年 |
江戸本所亀沢町で生まれる。 |
1846年 |
本所から赤坂田町に住まいを移す。 |
1853年 |
海防意見書を提出する。 |
1860年 |
咸臨丸でアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。 |
1862年 |
軍艦奉行に就任。 |
1866年 |
徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。 |
1868年 |
西郷隆盛と会見。江戸城無血開城をなす。 |
1890年 |
貴族院議員に当選するものの辞退。 |
1899年 |
脳溢血により死亡する。 |
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幕臣山岡鉄舟(やまおかてっしゅう) |
(1836年〜1888年) |
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1836年 |
江戸本所の御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として生まれる。 |
1855年 |
講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。 |
1868年 |
江戸開城の基本条件について合意を取り付ける。 |
1869年 |
、徳川家達に従い、静岡県に下る。 |
1871年 |
廃藩置県に伴い新政府に出仕。 |
1880年 |
浅利義明より一刀流の免許皆伝を許された。一刀正伝無刀流(無刀流)を開いた |
1883年 |
維新に殉じた人々のため台東区谷中に普門山全生庵を建立した。 |
1888年 |
胃ガンにより死亡する。 |
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幕臣高橋泥舟(たかはしでいしゅう) |
(1835年〜1903年) |
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1835年 |
旗本山岡正業の次男として生まれる。 |
1856年 |
講武所槍術教授方出役。 |
1860年 |
槍術師範役になる。 |
1863年 |
一橋慶喜に随行して上京。 |
1865年 |
新設の遊撃隊頭取 槍術教授頭取を兼任する。 |
1868年 |
江戸城開城。水戸へ下る慶喜を護衛 |
1903年 |
牛込矢来町の自宅で没す。 |
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幕臣大久保一翁(おおくぼいちおう) |
(1817年〜1888年) |
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1817年 |
旗本の大久保忠尚の子として生まれる。 |
1842年 |
家督を相続する。 |
1854年 |
目付・海防掛に任じられる。 |
1868年 |
会計総裁に選出される。 |
1868年 |
勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸城の無血開城に尽力した。 |
1872年 |
東京府の第5代知事。 |
1888年 |
死去する。 |
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幕臣小栗上野介・忠順(おぐりただまさ) |
(1827年〜1868年) |
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1827年 |
新潟奉行・小栗忠高の子として江戸駿河台邸に生まれる。 |
1843年 |
登城。 |
1853年 |
異国船が来航するのに対処する詰警備役となる。 |
1860年 |
遣米使節目付として、アメリカ海軍軍艦ポーハタン号で渡米。 |
1863年 |
造船所建設案を幕府に提出。 |
1867年 |
陸軍奉行になる。 |
1868年 |
権田村の東善寺に移り住む。捕縛され、斬首される。 |
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